あの人は今
--浜松JCの功労者達-- 「第6回 中村雄次先輩編」 |
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「自然退会もあり!?」
出席率が悪いメンバーを自然退会させる制度は私たちの頃に作りました。会として厳しくすることは必要かもしれないですね。その点で山本龍雄さん(第14期理事長)はとても理論的な考え方をする方でした。それが「自然退会制度」と「理事長選挙制度」でした。それまでは何処も同じで長老達が次期理事長を選んでいましたが、それを公選にしました。そして私が初めて選挙で選ばれた理事長なんですよ。選挙といってもその当時は40名くらいのメンバーだったので、総会で名前を書いて出す、という簡単な方法でしたけど・・・ |
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「身体を使ってやるのがJCだ」
JCで非常にたくさんの勉強をしました。設立趣意書というのは第8期理事長の齋藤和雄さんが推敲された名文です。50年経った今でも立派に通用する思想が盛られた内容です。また屏風に仕立てられた第11期理事長の齋藤重夫(梧堂)さん揮毫がこれを引き立てています。
第10期理事長の松島勇平さんはとてもアイデアマンでした。JCは資金がなかったので、「身体を使ってやるのがJCだ」ということで、昭和19年の東海地震で崩れた五社神社の石垣の御影石をもらってきて、浜松ゆかりの遺跡の名前を彫って道路端に建立する、という事業を行いました。今でも利町のハマホール前の旧市役所跡の公園などには残っていると思います。五社神社から無料で分けていただき、それを石屋さんに彫ってもらい、自分達で建てる、ということを年度事業として行いました。残念ながら今では都市計画などで無くなってしまったものもあるようですね。
また昭和30年の初め頃から、市民に対して緑の苗木の頒布を行いました。今で言う「緑化運動」の先駆けでした。昭和39年度は桜の苗木を、「満州道路」いまの都田テクノ街道西側1〜2キロにわたって植えました。しばらくはその場所の草刈りも行いました。
経済的にもゆとりのない時代でしたが、緑を植えて心にゆとりを持たせようということでJCが率先してやっていました。それが「まちづくり」の基本になっています。
私が理事長の時、伊東政好さんが委員長で市民アンケート事業を行いました。「どんなまちにしたい?」、「どんなまちづくりをしたい?」という設問を作って、サンプルを千何百集めた「浜松市民アンケート」です。その頃は集計のテクニックが幼稚で、パンチカードに穴を開けてソーティングするような分類方法でした。それしか方法がなかったのでとても原始的で時間もかかりました。パソコンが普及した今では考えられないですね。
【JCメンバーにむけて】
「今のメンバーは素晴らしい活動を行っていますね。昔は街の規模が小さかったのでよかったですが合併したら大変ですね。合併後は浜松JC、天竜JC、浜北JCそれぞれが地域活動として行うしかないわけで、ある意味ではおもしろい時代がきています。今まで以上に密接な郷土事業、いや同じ行政区域になれば事業がそれ以上に発展する可能性ができたわけですね。市長に3JCで押しかけて行って、もっとアクティブに働きかけたらいいと思いますね。
当時の平山浜松市長さんは政策的な活動でJCを上手に利用していたと思います。
青年婦人会館(現在の青年女性センター、通称あいホール)はJCを初めとする5つの青年団体が会合の場所を作って欲しいと市に働きかけ、出来た建物です。青年と女性の両方がくっついている建物は全国に浜松だけしかありません。青年や女性だけでなく県西部全体の方が利用出来る施設になりました。その火付け役が浜松JCだったのです。そんな活動がこれからもっと増えるといいですね。 |